闡提

闡提(せんだい)・一闡堤(いっせんだい)とも言います。多くの佛典では断善根、信不具足と訳されますが、これは今日の佛教学では意訳とされており、字義通りに翻訳すれば「欲求する人」というのが正しい。

佛教上における非道者を指す言葉で、成佛が不可能な者とされます。本来、佛教は「悉有佛性」で全ての人に佛となりうる根本的な性質を有していると解釈されています。しかし闡提は成佛が不可能な人と考えられていますのでなかなか辛い状況にある人と言えます。闡堤は末法思想の台頭とともに、平安時代末末期から興隆してきた言葉で、悉有佛性とは一見すると矛盾しています。親鸞上人は自らを闡提と称し、闡提ですら救われる教えとして阿弥陀佛への信仰を布教されました。阿弥陀様は偉いんですなぁ。

詠春拳も佛教に由来する武術なので、求める人は全て習得できる武術を目指したいところですが、実際は困難な場合が多い様です。一般的に見て出来る様になる人は上品とされ、聞いて出来る様になる人は中品とされます。では見ても聞いても理解すら出来ない下品の人には指導する術がない、となります。自分で自分が今何をやっているか理解できない人は意外に多い事に気が付きます。練習する上において修正不能で暗礁に乗り上げる練習者は少なくありません。指導者はこの時に、練習者を見限って放ったらかしにするが、細かく個別的に指導するかに分かれます。中国武術の指導者は圧倒的に前者が多い事をお知らせしておきます。ちなみに、これを「放置プレイ」または「捨て育ち」と言います。

特に武術では、自分で間違いに気付き、自分で修正しなければならない場面に直面する事がよくあります。下品の人にこの作業を強いるのはちょっと酷です。自分が何をやっているか分からない人に自己修正は望むべくもありません。詠春拳ではこの作業が特に重要で、所謂「後は自分に問え」が出来る事が詠春拳向上の必須条件となります。「捨て育ち」から自分で這い上がってくる事は非常に困難な方法となります。

下品の人が中品、上品となる過程に於いてその道程を分断する大河が存在しています。下品の人はその大河を向こう岸まで渡らなければ向上は望めません。分断する大河を渡るためには、少なくとも指導者の指導を聞いて自らを修正しながら理解していかなければなりません。最低限自分に問える事が必須条件です。

現在、当學院の詠春班にはその大河を渡れない絶望の三羽ガラスと呼ばれる練習生が3人います。詠春拳に於ける闡堤です。来年は絶望の三羽ガラスをしっかりと指導して希望の三羽ガラスとなるよう指導していく所存です。やり甲斐のある大仕事です。

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